日本の中央銀行、日本銀行は立派な博物館を持っています。その名も「日本銀行金融研究所貨幣博物館」。貨幣の歴史をみせる常設展に加え、定期的に個別テーマに集中した企画展をやっています。2019年2月24日まで開催中なのが「江戸の宝くじ『富』 -一攫千金、庶民の夢-」。ギャラリートークはマニアックながら、これからくるカジノビジネスを考えるにために参考になる話が一杯でした。

 ※以下は、ギャラリートークをまとめたものです。学芸員の方、本当にありがとうございました。

貨幣博物館

修繕費のための富くじ興行

富くじとは、江戸時代に寺社が主催した賭け事です。今の宝くじのように、一定額を出して「富駒」を購入し、主催者は富箱から当たりのくじを引きます。当選者には、最高で金千両が当たりました。江戸では1810~1840年代に盛んになったといいます。

 
なぜ寺社は富くじをやったのか。それは建物の修繕などのお金を調達するため。徳川幕府が財政難になったことで、幕府から修繕のための手当てがでなくなり、各寺社は自前でなんとかしなくてはいけなくなったのです。

このあたりは、地方自治体の公共事業につかう宝くじの収益金に似ています。

神社やお寺は、自分たちで主催をしたり、地方の神社仏閣に場所を貸したりしていました。記録によると、「東京のお寺が、京都で開催した」という例もあったよう。もちろん実際の運営は、「富師」と呼ばれるプロが担っていました。

江戸では2~3日に1回?

実際にどのぐらいの頻度で興行をしていたのか。なんと最盛期は、江戸では2~3日に1回、上方でも5日に1回とのこと。1回の興行では、富くじが数千~数万枚発売され、100人以上の当選者が出たそうです。

もちろん開催場所は当時の大都市だけではありません。地方にも広がり、抽選に使う箱も改良が進みました。

展示のなかで特徴的だったのは、出雲大社での興行です。こちらは地元の人は参加できず、富くじを買えるのは、旅行者のみ。現地の宿泊施設を使う人だけが買ったり当選金を受け取ったりできたそうです。

このため、富くじ興行に関連する周辺の商売の規模も大きかったようです。このあたりはシンガポールのカジノに似ています。

大量にさばくための販売方法
 

もちろん多くの興行を成功させるため、庶民への販売方法も工夫しました。正規の富くじは1枚金2朱からと、今で言うと1枚7000円~2万円程度。庶民からすると高値の花です。そこで、富札屋という事業者が買いやすい価格に等分した「割札」を販売することもありました。

多くの庶民が富くじを求めたのは、一獲千金の夢があるから。当時娯楽が少なかったという事情もあるのではないでしょうか。あたる富くじを選ぶための夢占いをまとめた書籍なども出版されました。

興行収入のうち、当選金として還元するのは約7割と、今の賭け事に比べるとやや高めというのも人気の秘密だったのかもしれません。

そして表があれば裏がある。「何番が当選番号になるか」にかける非公認の「影富」などもありました。

時の政権に嫌われる富くじ

こうして幅広い経済を支えた富くじですが、時の政権には敬遠されます。今のカジノの議論と同様、「家庭を破壊する」「堕落につながる」など批判されます。

そのため幕府から禁止令が出て、1842年には禁止されます。(天保の改革)

もちろん禁止されたらすぐになくなるわけではありません。

当時治外法権だった、横浜、神戸、築地などの外国人居留地では富くじが続いていたという記録が残っています。しかも木製の富駒ではなく、布などの入札を装い、あとから落札した商品を換金する仕組み・・・パチンコの仕組みに似ているような、似ていないような。

 

富くじの興行からカジノビジネスの将来を考える

今の宝くじは、昭和20年、太平洋戦争の軍事費を調達するために販売した「勝札(かちふだ)」が起源です。必ずしも江戸時代の富くじと直接つながっているわけではありません。

それでも富くじの歴史、庶民の熱狂度合い、政権の対応を振り返ると、今のカジノを巡る議論に参考になるデータや経験が見えてきます。各地がカジノの拠点の誘致を検討するなら、地元の富くじの歴史を振り返ると面白いかもしれません。

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